私たちは毎日、多くのことを「知っている」と思って生きている。
火は熱い。明日も太陽は昇る。
この薬には効果がある。
このニュースは事実だ。
あの人は信用できない。
最近の若者はこうだ。
この商品は人気らしい。
このように、我々は日常的な出来事について、どれも同じように「そういうものだ」と感じている。
しかし、歴史的根拠があるにもかかわらずブッダが現在のネパールではなく、インド出身であると思われているように、実際知識や経験則というのは不確かなものである。そこで一度立ち止まって、少々面倒なことを考えてみたい。
私たちが真実だと思っていることは、本当に真実なのだろうか。
この問いを真剣に考え始めると、
おおよそ日曜日の午後くらいは簡単に潰れてしまうかもしれないが、とにかく考えてみよう。

1.我々が信じていることは、本当に真実だろうか
明日も火は燃える。たぶん。
紙に火をつける。燃える。
もう一枚燃やす。やはり燃える。
さらに燃やす。当然、燃える。
何度繰り返しても同じことが起きるので、私たちはこう考える。
紙に火をつければ燃える。
当たり前である。
これを疑いながら生活している人と、キャンプに行ったら、かなり面倒だろう。
しかし18世紀の哲学者デイヴィッド・ヒュームは、この「当たり前」に少々面倒な疑問を持ち込んだ。
過去に何度そうなったからといって、
次も必ずそうなると論理的に保証できるのだろうか。
これまで一兆回、紙に火をつけたら燃えたとする。
それでも一兆一回目が必ず燃えることを、過去の経験だけから完全に証明することはできない。
もちろん普通は燃える。
ヒュームもおそらく暖炉を使っていたが、
問題は、「これまでそうだった」から「これからも必ずそうなる」への飛躍である。
これが、いわゆる帰納の問題である。

科学は「絶対正しい」から強いわけではない
科学も、多くの場合この帰納的な考え方を使っている。
観測し実験する。同じ結果が繰り返される。
そこから法則や理論を作り、その理論で次に起こることを予測し、また確かめる。
これを膨大な回数積み重ねることで、
「どうやらこれは相当確からしい」
という知識を作っていく。
だから科学は非常に強力である。
飛行機も飛ぶし、スマートフォンも動くし、私たちは人工衛星を宇宙へ送り込める。
これはかなり大したことである。
ただし科学が与えるのは、
世界そのものを神の視点から直接見た最終回答
ではない。
科学が与えるのは、現時点で最もうまく説明できる論理だ。
ニュートン力学があり、その後に相対性理論が登場したように、
より説明できる理論が現れれば更新され、そしておそらくそれは永遠に続いていく。
宇宙はまるで終わらない脱出ゲームのようである。

「事実」と呼ばれているものも、誰かを通ってやってくる
さらに厄介なのが情報である。
私たちは世界中の出来事を直接見ているわけではない。
戦争。犯罪。経済。政治。海外情勢。企業不祥事。流行。
ほとんどは、テレビ、新聞、Webメディア、SNS、動画、誰かの投稿を通じて知る。
つまり私たちが受け取っているのは、
出来事そのものではなく、出来事について誰かが構成した情報である。
もちろん、それが嘘だという意味ではない。
しかし何を報じるかやどこを切り取るか。
誰に話を聞き、どの数字を見せるか。
それをもとにどんな見出しをつけるか。
これだけでも印象はかなり変わる。
例えば、「犯罪件数が前年比10%増加」という報道があったとする。
これは事実かもしれない。
しかし、長期的には減少傾向なのか。
人口あたりではどうなのか。
特定の犯罪だけ増えたのか。
前年だけ異常に少なかったのか。
そこまで見ると、印象が変わる可能性がある。
事実は同じでも、どの範囲を額縁に入れるかによって、見える絵は大きく変わってしまう。

広告は嘘をつかなくても人を動かせる
広告は、この仕組みをかなり上手に使う。
ある商品を1000人が使った。
そのうち10人が、「人生が変わりました!」と言った。
広告には、その10人を出せばよい。
嘘ではない。本当に人生が変わったのだから。
残り990人について特に触れなければいい。
すると見る側には、「これを使うと人生が変わる商品らしい」という印象が残る。
プロパガンダも同じだろう。必ずしも完全な嘘を作る必要はない。
都合のいい真実を大量に並べるだけでも、世界の見え方は変えられる。
これはかなり重要なことだ。
私たちは、「これは本当か、嘘か」だけでなく、
「本当だとして、何が省かれているのだろう?」
と考える必要がある。
しかし、世界についてこんなにも不確かなことしか分からないのだとしたら、
我々はいったいどうやって生きればよいのだろうか。
困ったことに、ここで登場するのが人間の脳である。
一見問題を解決してくれそうだが、
実のところ、問題の半分くらいはこのへんてこな部位が作っている。

2.我々の脳は、経験則に基づいて世界を理解したがる
脳は「分かりません」があまり好きではない
人間の脳は、分からない状態をあまり好まない。友人から返信が来ない。理由は分からない。
この状態で静かに三日間過ごせれば大したものである。
多くの場合、脳は勝手に働き始める。
「何か怒らせたかな」
「この前のあれか」
「最近ちょっと冷たかったしな」
そして十分後には、まだ本人に何も確認していないのに、
勝手に人間関係を一度終了してしまっている場合すらある。
人間は「分からない」という空白を見ると、
そこに凄まじいスピードで理由づけと推測を開始してしまうのだ。

経験に似ているものを「真実らしい」と感じる
そして私たちは、自分の経験と一致する情報を信じやすい。
昔、ひどい上司に出会った人が、
「管理職なんてみんな自分のことしか考えていない」
という投稿を見る。
すると、「分かる。まさにその通りだ」となる。
もちろん、そういう管理職はいる。
しかし、自分の経験と一致したことと、世界一般について正しいことは別である。
一人に裏切られた。だから人は信用できない。
ある方法で成功した。だからこれが成功法則だ。
これらはすべて、限られた経験から世界全体の説明を作るという点で似ている。
経験は重要である。しかし経験とは、
自分の人生で得られたかなり限定的なサンプルでもある。

SNSは、自分の信念をどんどん補強してくれる
SNSのおすすめ機能は便利である。
猫動画を見れば猫で溢れかえり、料理動画を見ればさまざまなメニューが提供される。
おすすめエンジンは、私たちが興味を示した情報に近いものを「どうぞ、ご遠慮なく」というふうに次々表示してくる。
すると、「最近この意見をよく見るな」となり、
そのうち、「やっぱりみんなそう思っているんだ」となる。
しかし実際には、世界中のみんながそう思っているのではなく、あなたの画面がそうなっているだけかもしれない。
これは非常に不思議な状態である。
世界を見るためにスマートフォンを開いたはずなのに、いつの間にかスマートフォンが作った自分専用の世界を見ている。
世界は一体広がっているのか、狭まっているのか。

認知的不協和――人間は考えではなく解釈を変えることがある
さらに人間には、少々厄介な性質がある。
自分が信じていることと矛盾する情報に出会うと、不快感を覚えてしまうのだ。
これは一般に認知的不協和と呼ばれる心理現象である。
例えば、「この人は絶対に信用できる」
と思っていた人が、明らかに怪しい行動をした。
普通なら、「自分の判断が間違っていたかもしれない」と考えればよい。
しかし人間は、
「何か事情があったに違いない」
「相手にも原因がある」
「これは切り取られた情報だ」
と解釈して、元の信念を守ることがある。
反対に、嫌いな人物が良いことをしても、
「どうせ裏がある」となる。
これなら永久に自分の考えが否定されることはない。
自己防衛としてはなかなか便利な機能であるが、便利すぎる道具は大抵それに見合うリスクを抱えている。

正しいと思うことと、絶対に正しいことは違う
もちろん、自分の意見を持つことが悪いわけではない。
科学についても、政治についても、仕事についても、人間関係についても、
何かを判断しなければ生活できない。
大切なのは、
「私はこれが正しいと思う」
と、
「これは絶対に正しい」
を混同しないことである。
現在持っている情報では、
そう考えるのが妥当。
自分の経験上では、そう感じる。
ただし、別の情報が出れば考えを変えるかもしれない。
そのような考えに余白を残しておくことが大切ではないだろうか。

3.「群盲象を評す」――我々は象のどこを触っているのか
象を触った人たちは、全員ある意味で正しかった
有名な「群盲象を評す」という寓話がある。
目の見えない何人かの人が象を触る。
鼻を触った人は、
「象とは太い蛇のようなものだ」と言う。
脚を触った人は、
「いや、象とは柱のようなものだ」と言う。
耳を触った人は、
「大きな扇のようなものだ」と言う。
腹を触った人は、
「壁だ」と言う。
そして、おそらく議論が始まる。
しかし面白いのは、全員が完全に間違っているわけではないことである。
それぞれが触った部分については、かなり正確に説明している。
問題は、部分について得た真実を、全体の真実だと思ったことである。
我々も世界の一部分しか触っていない
これは、私たちも同じではないだろうか。
経営者には経営者から見える会社がある。
社員には社員から見える会社がある。
親には親から見える家庭があり、
子どもには子どもから見える家庭がある。
日本から見る世界と、別の国から見る世界も違うだろう。
同じ出来事でも、立場が変われば見える部分が変わる。
つまり我々が「世界」と呼んでいるものは、実際には、
自分が立っている場所から観測できた世界
にすぎない。
象全体を見ていると思っているが、案外、耳の端を握っているだけかもしれない。

しかも、触った感触すら人によって違う
さらに面倒なのは、同じ部分を触っても、人によって受け取り方が違うことである。
同じ上司から同じ言葉を言われても、「期待されている」と思う人もいれば、
「圧をかけられた」と思う人もいる。
知覚された情報は、過去の経験、性格、
その日の機嫌、価値観、知識によって解釈される。
つまり、世界の一部しか見ていないうえに、その一部さえ自分用に変換されている。
こう考えると、人間の認識というのはなかなか大胆かつ不安定である。
この状態で私たちは、「世の中とはこういうものだ」と断言している。
象の側からすれば、かなり不本意だろう。

4.知的謙虚さについて
争いは「私は正しい」から始まるのかもしれない
人間同士の争いについて考えると、
かなりの割合で、
自分の認識の方が正しい
というところから始まっているように思う。
討論番組を見ると分かりやすい。
最初は政策について話していた。
しばらくすると、「あなたは現実を分かっていない」とどちらかが言い出す。
さらに進むと、「そもそも前にもあなたは――」と次に続き、
気づけば、当初の論題は「あの、私はここにいるんですけど」と言う状態になる。
テーマについて議論していたはずなのに、
最終的には人格と過去の発言と声の大きさを競う大会になっている。
もちろん議論には対立があってよい。異なる意見をぶつけるからこそ見えるものもある。
問題は、自分の視点からみた世界を現実そのものだと思った瞬間である。

「私は70%くらい正しいと思う」という態度
もし私たちが自分の意見について、「絶対に正しい」ではなく、
「現在ある情報では、おそらくこちらが正しい」
くらいに考えられたらどうだろう。
例えば、「私はこの政策に賛成です。これらのデータを見る限り、こちらの方が有効だと思います。ただし、この部分については不確実です」と言う。
相手も、「私は逆だと思います。別のデータではこうなっています」と返す。
そして、「では、どこが違うのか見てみましょう」となる。
これは極めて健全な議論であるが、
テレビとしては、恐ろしく人間味がなくつまらない。
SNSの切り抜きタイトルも、
「両者、データの前提条件について冷静に検討」となり、再生回数は一桁を記録するだろう。
しかし、本来の議論とはそういうものではないだろうか。

相手の意見だけでなく、相手の感情も存在している
知的謙虚さには、もう一つ大切なことがあると思う。
人間はデータだけでできているわけではない。
不安があり、恐怖もあって、怒りもある。
例えば社会問題について強い不安を感じている人に、
「データ上、その不安は合理的ではありません」と言っても、もちろん、その人の不安そのものが消えるわけではない。
しかし、相手の主張を検討することと、
相手の感情を尊重することは何も相反することではない。
あなたがそう感じる理由は理解するし、寄り添う。
そのうえで、事実について一緒に確認してみよう。
この方が議論としてはずっと建設的である。
正しさで相手を殴ると、だいたい相手も別の正しさを持ってくる。
そして人類は長いことそれを繰り返しているし、今もなおスクリーンの中では健在である。

信用とは、断言することではなく「限界を言えること」なのではないか
世の中では、自信のある人が信用されやすい。
「絶対です」「間違いありません」「これが真実です」
そう言ってくれれば、確かに頼もしい。
しかし本当に信用できる人とは、むしろ、
「ここまでは分かっています」
「ここから先は推測です」
「この点については私にも分かりません」
と言える人ではないだろうか。
専門家にしても、経営者にしても、政治家にしても同じである。
分からないものを分からないと言うし、
どこまでがどれくらいの可能性で出来て、
出来ないのかを伝える。
間違えたら修正し、新しい情報が出たら更新する。
それは弱さではない。
むしろ、自分の知識の境界線を知っている強さである。
知的謙虚さとは、何も信じないことではなければ、自分の意見を持たないことでもない。
よく考える。しかし、よく考えて出た自分の意見も絶対正しいわけではないと自覚すること
だと思う。
これが非常に面倒なのは確かだ。
しかし、人間同士が一緒に暮らしていくには、その面倒さが案外重要なのかもしれない。

5.最後に
ここまで、科学が絶対的な真理を保証するものではないこと。
情報もまた、さまざまな編集や立場を通して届くこと。
人間の脳は分からない状態を嫌い、経験に基づいて物語を作ること。
SNSや広告が、その傾向をさらに強めること。
そして私たち自身も、世界のごく一部しか認識していないことについて考えてきた。
ここまで読んで、「では何も信用できないではないか」と思うかもしれない。
しかし結論は逆である。
何も信じない必要はない。
科学も使えばいい。
ニュースを読んで、専門家の意見も聞けばいい。
SNSも楽しめばいいし、自分の経験も大切にすればいい。
ただ
それを世界そのものだと思わない。
現時点では、これが一番正しそうだ。
でも違うかもしれない。
知らない情報があるかもしれない。
それを理解しておく姿勢が、知的謙虚さなのだと思う。
この記事にも度々登場したROMANsのアートでも、私たちが当たり前だと思っている常識や情報、社会の仕組みに対して、
「本当にそうなのだろうか?」
という視点から描かれた作品が数多く存在する。
日常ではあまり立ち止まって考えないことを、少しだけ別の角度から眺めてみる。
アートには、そんな役割もあるのかもしれない。














気になった方は、ぜひ下記サイトからROMANsの作品をご覧いただきたい。












