世間のモラルと人間社会
人間は、なかなか心配性な生き物である。
雨が降れば傘を作り、泥棒が出れば鍵を作り、鍵をなくせば合鍵を作り、合鍵をどこに置いたか忘れたかと思えば人生の今後について考える。
私たちは危険から身を守るために、どこの誰がいつ作ったのかも分からないさまざまな仕組みに従ってきた。
法律、制度、マナー、常識、ルール、保険、契約書、利用規約、校則、社内規定、町内会の当番表。
どれも最初は、たぶんより良くしようという気持ちから始まったはずだ。
人が傷つかないように。
不公平が起きないように。
混乱しないように。
みんなが安心して暮らせるようにと。
その心意気は立派である。
しかし問題は、私たちを守るために作られたはずの社会が、ときどき私たちを縛り始めることだ。
まるで寒さに耐えるために着込みすぎた結果、
締め付けられすぎて健康を損なっている冬の夜のような本末転倒である

世間のルールやモラルは「念のため」である
社会の多くは、「念のため」からできている。
念のため、ルールを作る。
念のため、書類を増やす。
念のため、承認を取る。
念のため、確認の確認をする。
念のため、確認の確認を確認する。
このあたりで、人間は何を確認していたのか分からなくなる。
しかし確認欄だけは春の雑草のように増えていく。
もちろん、「念のため」は大切だ。
橋を作るときに「たぶん大丈夫」で済まされたら困るし、飛行機の整備で「まあ雰囲気でいけるでしょう」と言われたら、乗客は全員なんらかの神に祈ることになるだろう。
問題は、すべてのことに飛行機と同じ慎重さを持ち込んでしまうことである。
ちょっとした手続きにも書類。
小さな変更にも承認。
誰も読まない資料に、誰も覚えていないルール。
人間を守るための仕組みが、人間の時間と気力をじわじわ吸い取っていく。
そしてそのうち、何のやる気も起こさせない、どことなく停滞したどんよりとした空気が漂いだす。
言うまでもなく、その空気は決して美味しくはない。

動物たちも、実はけっこう社会をやっている
社会を作るのは、人間だけではない。
働きアリはせっせと動き巣を作りながら、女王アリを中心に巨大な組織を維持している。
ミツバチも役割分担をしながら、驚くほど整った集団生活をしている。
ミーアキャットには見張り役がいて、危険が近づくと仲間に知らせる。
つまり自然界にも、役割、警戒、協力、分担がある。
だが、アリはおそらく、日曜の夜に「明日からまた巣か……」とは考えない。
ミツバチも、花粉を集めながら「この働き方は自分らしいのだろうか」と悩んでいないはずだし、
ミーアキャットの見張り役も、勤務評価シートを提出してはいないだろう。
動物の社会は、基本的に生き延びるためにある。
捕食者から逃げ、食べ物を集め、子孫を残すというとてもシンプルな生活である。
一方、人間社会はなぜかそこに、評価、世間体、履歴書、確定申告、暗黙の了解、そして「一応、関係各所に確認しておきます」という複雑なコンテキストを持っている。
世界で生き延びるための仕組みだったはずの社会だったはずが、
いつのまにか私たちはその「社会で生き延び」なくてはならなくなった。
これが人間社会の迷惑な逆転現象である。

ルール(モラルや常識)は草のように生い茂る
ルールは、本来とても便利なものだ。
赤信号では止まる。
順番を守る。
人のものを盗まない。
冷蔵庫に入っている名前付きプリンを勝手に食べない。
このあたりは社会生活の基本である。
だが、ルールはまるで蔦のように増え出し、知らぬ間に色々と絡まってくる。
最初は一輪の花だった。
「危ないから気をつけよう」という、素朴だが愛でるに値する花である。
そこに「前回こういうことがあったから、この場合も決めよう」という草木が現れる。
さらに「例外が出たから例外の例外も決めよう」と茂みはじめる。
そのうち、誰も全貌が掴めないほどの森が出来上がる。
そして人は森の中で迷う。
本来は私たちの安全を誘導するための森なのに、出口が分からない。
無理やり出ようとすると、間違いなく血だらけになる。
「この手続きは何のためですか」
と聞くと、たいていこう返ってくる。
「昔からそうなっていて、皆さんに同様の手続きしていただいています」
そう言われると意味はよく分からないが、「ああ、そうなんだ」と黙ってしまう。
一度生えた木を伐採するには、それなりの労力が必要なのだ。

昔の人間社会も、かなり頑張って縛られていた
昔の人間社会もなかなかのものである。
「現代社会は息苦しい」と言うと、昔はもっと自由だったように思えるかもしれない。
しかし、身分によってあらゆるものが決まっていた時代がある。
住む場所、仕事、結婚、言葉遣い、振る舞い。
今よりもずっと多くのことが、「あなたはこの枠です」と決められていた社会もあった。
村社会では、共同体の中で生きることが安全につながる一方で、
周囲から外れることは大きな危険でもあった。
助け合いはあるが、それが過剰であれば、単なる侵害である。
隣の家の人が何をしているか、だいたい分かるし、
誰が畑をさぼったかも明らかだ。
プライバシーという言葉が日本語に無いように、
私たちにプライバシーはなかった。
昔の社会は、人を守るかわりに人を枠の中に置いた。
現代社会は、人を自由にしたように見えて、敷かれたレールと自己責任という言葉で縛りつけている。
そのうえ世間というものは、時代を超えて健在である。

安心を求めすぎると、自由が小さくなる
人間は安心したい。
これは当然である。
明日も食べられる。
病気になっても助けてもらえる。
理不尽な暴力から守られる。
騙されない。奪われない。突然家に入ってこない。
しかし、安心を完全に保証しようとすると、自由は削られていく。
危険を減らすには、行動を制限するのが早い。
失敗を減らすには、挑戦を減らすのが早い。
トラブルを減らすには、人と人が関わらないようにするのが早い。
安全という観点では、実に合理的である。
すべての角を丸くした世界は安全だろう。
しかし、角を丸くした社会では、角の立つことはできない。
人間は、ときどき角が立つ。
変なことを言うし、
余計なことをする。
妙なものを作っては、
突然、誰にも頼まれていないのに新しい遊びを考える。
それが文化になったり、発明になったり、ただの黒歴史になったりするが、
そのような遊びこそが豊かさではないだろうか。
私たちの人生は、ルールを守るためだけにあるわけではない。
安全は大事だ。
しかし安全だけを最大化した人生は、真っ暗な檻の中である。

「みんなのため」が、たまに誰のためでもなくなる
社会のルールは、よく「みんなのため」に作られる。
この「みんな」は便利な言葉である。
しかし、ときどき誰を指しているのか分からない。
みんなとは誰なのか。
どこに住んでいるのか。
朝はパン派なのか、ご飯派なのか。
そもそも実在するのか。
実際には、「みんなのため」と言いながら、
特定の人にとって都合のよい仕組みになっていることもある。
あるいは、最初は本当にみんなのためだったのに、
時代が変わってもそのまま残り、
今では誰のためでもない儀式になっていることもある。
ハンコを押すために紙を出し、
紙を出すために申請し、申請するために別の紙を出す。
私たちは社会を作ったつもりでいた。
しかし気づけば、社会の方が私たちに「この欄にフリガナを記入してください」と命じている。
そして人間は、なぜか素直に従う。
フリガナを書き、押印し、控えを取り、念のためコピーを残す。
なぜなら既にそう作られていて、
変えるにも膨大な手続きが必要だからだ。

では、ルールを全部なくせばいいのか
もちろん、ルールは必要だ。
ルールを全部なくした世界では、午前中まで生き残れるかどうかすら分からない。
交通は混乱し、スーパーには主婦がおしかけ、飼い犬は呆然と立ち尽くすだろう。
だから、問題はルールそのものではない。
ルールが目的を忘れてしまうことである。
人を守るためのルールなのに、人を苦しめていないか。
公平のための制度なのに、誰かを排除していないか。
安心のための仕組みなのに、挑戦する余地まで奪っていないか。
この確認が必要ではないだろうか。
ルールは、作った瞬間にモーセの石板となるわけではない。
それは本来は道具である。
道具なら、合わなくなったら直せばいい。
重すぎるなら軽くすればいい。
使い道がなくなったなら、倉庫にしまえばいい。
ところが人間は、自分で作った道具をすぐ神棚に上げ、
まるでそれが絶対かのように扱う。
これは脳の働きからすると正常である。
脳はできるだけ新しいことをしないように、現状維持を推奨する。
なぜなら新しいことは処理コストがかかるからである。
しかしそのコストを支払ってでも、
変えようとした方がいいほど、現状の社会は窮屈ではないだろうか。

よりよい社会にするためには
大切なのは、社会をなくすことではない。
社会の余白を取り戻すことである。
人間は疲れる。
間違える。
忘れる。
面倒くさがる。
たまに冷蔵庫の前に来て、何を取りに来たのか忘れる。
そういう完璧ではない生き物に合わせて、社会を作る必要がある。
完璧な人間を前提にした制度は、とても息苦しい。
なぜなら、現実の人間はパスワードを忘れただけで一日の半分を失うこともあるくらい、完璧ではないからだ。
だから社会は、少し抜け道があり、余白がある方がいい。
「まあ、人間ならそういうこともあるよね」
そう言える方が、居心地はいい。
もちろん、何でも許せばいいわけではない。
しかし、犯罪でもない誰かの行動を必要以上に糾弾することは、自分たちの首を絞める以外にあまり何ももたらさない。
人間社会には、もう少し「うっかり」を許す場所があっていい。
もう少し「事情」を聞く余裕があっていい。
もう少し「例外」を人間らしく扱う余地があっていい。
なぜなら、私たち自身が例外だらけの生き物だからである。

終わりに
生きづらさは、社会のどこかが合っていないというアラートなのかもしれない。
スマートフォンの通知音ならオフにできる。
しかし社会の通知音は、絶えずことあるごとに鳴り続ける。
「このルール、誰のためなのか」
「この仕組み、今も必要なのか」
「そのモラルは、本当に人を守っているのか」
「それとも、守るふりをして動けなくしているのか」
こうした問いは面倒である。
どうせ変わらないなら、何も言うべきではないと思うかもしれない。
しかし問わないままにしていると、社会はどんどんご丁寧に私たちの首を絞めにくる。
「皆さまの安全と円滑な運用のため、ご理解とご協力をお願いいたします」
私たちの社会にとって重要なのは、
これ以上モラルを厳重にすることではなく、
徐々に首元を締め付けるしがらみをほどいていくことではないだろうか。
守るために作ったものが、いつのまにか人を押しつぶしているなら、少し見直した方がいい。
社会は人間のためにあるのであって、
人間が社会のために生きる必要はないのだから。

作品紹介:Gli Stritolati「スクイーズド・カルテット」

今回のテーマに合わせて紹介したい作品が、ROMANsの《Gli Stritolati》「スクイーズド・カルテット」である。
「Gli Stritolati」は、イタリア語で「押しつぶされた者たち」「締めつけられた者たち」といった意味を持つ言葉である。
四つの枠の中に、それぞれのキャラクターがぎゅっと詰め込まれている姿は、
現代社会の中でさまざまな役割や期待、
ルールや常識など無駄に背負わされた責任に苦しめられる私たちの姿にも重なるだろう。
ROMANsの作品は、明るくポップな色彩を持ちながら、
その奥に人間の不器用さや社会の奇妙さを感じさせる。
私たちは、毎日いろいろなものに縛れられている。
けれど、完全につぶれてしまうその前に、
お互い寛容になって手を差し伸べてみてはどうだろうか。
社会はときどき窮屈で、理不尽で、ばかばかしい。
しかし、そのばかばかしさに気づけるうちは、まだ少し余白が残っているのかもしれない。









