序章
人類は長い歴史の中で、実に多くのことを成し遂げてきた。
人類は火を使いこなし、車輪を発明し、ついでに「会議のための会議」という、
おそらくは宇宙でも類を見ないであろう会議の増殖までおこなってきた。
科学技術の進歩は止まるところを知らず、
人工知能が互いにネット掲示板で罵りあうようになったことは、
知性の誕生を祝う者にとっては、少々複雑に感じられたかもしれない。
ところが、これほどの進歩を遂げてもなお、
「好きな相手から返信が来ない」
という問題には、いまだ人類は有効な解決策を見つけられていない。
月にはいけても、既読無視ひとつ克服できないのは、実に奇妙な現象である。
普段は常識的で、電車の時刻表を読み、冷蔵庫の賞味期限を気にする人間が、
ある特定の人物を前にすると、突如として判断力を失う。
相手の何気ない一言に一日中浮かれ、たった一つの素っ気ない返事に人生の終わりを感じる。
友人がこの状況なら、誰もが当たり前のようにこう言うだろう。
「ちょっと冷静になった方がいいよ」
しかし自分が当事者になった瞬間、
この至極まっとうな助言は、なぜか説得力を失ってしまう。
どうやら助言というものは、他人にしか使えない仕様らしい。
これが世に言う「恋は盲目」である。
では、我々はいつからこんなことをしているのか。
そしてこの不具合は、人間だけのものなのか。
今回はそれを調べてみたが、事態は思った以上に深刻だった。

1.人類が誕生する前から、動物たちは妙なことをしていた
恋愛は人間だけのものではない
恋愛というと、人間だけが持つ高尚な感情のように思われがちである。
実際には、自然界には異性の気を引くために、驚くほど無駄な労力を注ぎ込む生き物は他にもいる。
たとえばオーストラリアのニワシドリである。
雄は枝を組み上げて構造物を作り、その周りを花や羽や、色とりどりのあれこれで飾りつける。
特にアオアズマヤドリは青色に異様なこだわりを見せ、
人間が捨てたペットボトルのキャップや洗濯ばさみまで嬉々として集め装飾する。
しかも、この構造物は巣ではなく、ましてや住むためのものですらない。
ただひたすらに雌を迎えるためだけに作られた、美的センス全振りの求愛専用建築物である。
これは、人間がデートの前に部屋を片付け、間接照明をつけ、
普段は存在すら忘れているアロマを焚くのと、どこか似てはいないだろうか。
違いがあるとすれば、鳥は洗濯ばさみを「インテリア」として堂々と使いこなしているが、人間は必死で隠そうとする点くらいである。

2.4,000年前の人間も、すでに恋の詩を書いていた
では、人類はいつから恋をしていたのか。
正確な起源は誰にもわからない。
当然ながら感情は化石にならない。
考古学者が太古の人骨を掘り出しても、
その持ち主が生前誰に片思いをしていたのか、
初恋の相手にどう振られたのかまでは、現在の技術では残念ながら判別できない。
ただ、文字が発明されると、状況は変わった。
古代人も恋愛に悩んでいた
古代メソポタミアのシュメール文明には、
紀元前2000年頃に成立したとされる『シュ・シン王の恋歌』が残っている。
現存する最古級の恋愛詩の一つだ。
愛する相手を蜂蜜の甘さにたとえ、その魅力をたたえ、
できれば二人で寝室で過ごしたいという願いが綴られている。
宗教的な儀礼と関係する詩ではあるが、
4,000年前の人間も、好意を伝えるために甘い言葉を並べていたことに変わりはない。
古代エジプトにも見逃せない作品がある。
チェスター・ビーティ・パピルスに記された恋歌には、
愛する人に7日間会えず、病に倒れてしまった男が登場する。
医者にも神官にも治せない。唯一の治療法は、恋人との再会だという。
いわゆる恋煩いだろう。
現代なら、とりあえず友人に相談し、
暇があればインターネットで「返信が来ない 脈あり」と検索するところだろう。
しかし言うまでもなく、古代エジプトに検索エンジンはなかった。
そのため彼は、この苦しみを詩にするしかなかったのである。
結果として、現代の検索結果よりずっと文学的な、
人類史における数少ない勝利の一つと言っていい成果物が残った。
中国の『詩経』にも、日本の『万葉集』にも、恋の歌は山ほど収められている。
我々は進歩しているように見えて、悩みの種は驚くほど変わっていない。
恋愛の悩みは最新の社会問題などではなく、人間が人間である限り、
そこにあり続けるものなのかもしれない。

3.恋愛は昔からあったが、恋愛結婚はそうでもなかった
ここで、一つ面白い歴史的事実がある。
人類は古くから恋をしていたが、だからといって、
好きな相手と結婚することが当然だったわけではない。
婚姻は長いあいだ、家族や親族の関係を築くための社会制度であり、
経済的・政治的な意味合いを強く持っていた。
恋心は、いわば婚姻届けに記入する必要する上で必要なかったのである。
たとえばヨーロッパで、恋愛と個人の幸福を結婚の中心に据える考え方が広まったのは、主に18〜19世紀以降のことだ。
つまり、恋をすることと、その相手と生活を共にすることは、歴史上必ずしも同じ問題ではなかった。
ところが現代では、恋愛した相手と結婚し、生活を共にし、
経済的に協力して子育てをし、老後まで支え合うことが期待されることがある。
恋愛という、極めて感情的で気まぐれな現象に、経済、生活、将来設計という重要な業務まで一括して委託しているのだ。
たとえるなら、天気予報をくじ引きで決めている気象庁に、国家予算の編成まで任せるようなものである。
なかなか大胆な制度設計だと言わざるを得ない。
好きな相手を見つけるだけでも大仕事なのに、そのうえ共同生活の適性審査まで行わなければならない。
少子化が進むのも、無理はないのかもしれない。

4.恋をすると、本当に人間の判断力は鈍るのか
ここからが本題
「恋は盲目」という表現は、単なる文学的な比喩なのだろうか。
実は、脳科学の研究にも、この言葉を連想させる結果がある。
2004年に科学者が発表した研究では、恋愛感情や母性愛に関係する脳の活動が調べられた。
その結果、愛情に関連して脳の報酬系が活発になる一方で、
否定的な感情や、他者への批判的な社会的判断に関わる領域では、活動の低下が観察された。
もちろん、恋をすると理性が完全に停止すると証明されたわけではない。
しかし、恋愛が相手への評価や判断に影響を与える可能性は示されている。
少々乱暴に言うなら、我々の脳には特定の人物にだけ特別な評価を与える機能が、標準装備されているようなものである。
しかも取扱説明書はなく、保証書もない。
普段なら欠点と判断するような点が、恋愛中にはなぜか魅力に見える。
そしてその評価は、相手を好きでなくなった途端に、すっと元へ戻ることがある。
これほど判断を左右する仕組みが、なぜ進化の過程で淘汰されずに残ったのか。
これは、宇宙の大きな謎の一つに数えてもいいだろう。

5.恋は盲目という性質は、本当に欠陥なのか
そもそも、誰かを愛するというのは、極めて不思議な行為だ。
世界には数十億人もの人間がいる。
その中から、特定の一人を選び出し、ほかの誰とも違う価値を見いだす。
客観的に考えれば、その人物が世界で最も優れているという保証は、どこにもない。
統計学者なら、静かに首を横に振るだろう。
それでも恋をすると、人はある特定の相手を特別だと感じる。
これは、進化的に考えると、案外重要な仕組みなのかもしれない。
もし我々が、他人を常に完全な客観性で評価していたら、どうなるか。
ある人と出会い、好意を抱いたとする。
しかし、その人よりも魅力的な相手が世の中に一人でも存在しうる以上、関係を深めることには慎重にならざるを得ない。
もっとよい相手が見つかるかもしれない。
いや、見つかったとしても、その上がまだいるかもしれない。
この調子では、恋人を見つける前に人生が終わってしまい、
比較検討だけで一生を使い切る、史上最も丁寧な独身者の誕生するだけである。
人間関係を築くには、どこかの段階で無限の比較をやめ、特定の相手と向き合う必要がある。
もしかすると、恋愛に伴う「相手の特別視」には、そのための安全装置のような働きがあるのかもしれない。
もちろん、これはあくまで進化論的な解釈の一つであり、恋愛のすべてを説明するものではない。
また、誰かを特別に思うことと、その人の問題行動を見過ごすことは、まったく別の話である。
盲目になってよいのは、あくまで比較検討の話であって、
危険信号まで見えなくなってよいという意味ではないだろう。
それでも、他人を愛するという行為には、
純粋な合理性だけでは説明できない部分があるのは確かだ。
説明できるなら、とうの昔に誰かが論文にまとめて、
恋愛は公教育の一分野として思春期に叩き込まれているだろう。

6.我々は相手そのものを愛しているのか
16世紀末、シェイクスピアは『ヴェニスの商人』の中で、
「恋は盲目であり、恋人たちは自分たちの愚かな振る舞いに気づかない」
という趣旨の台詞を書いた。
文学史屈指の名台詞だが、ここまで考えてくると、もう一つ疑問が湧いてくる。
恋をしているとき、我々は本当に相手そのものを見ているのだろうか。
たとえば、誰かの優しい一面を見て、その人を好きになったとする。
やがて、相手の意地悪な部分や身勝手な一面を知り、幻滅する。
そのとき我々は嘆く。「こんな人だとは思わなかった」
しかし、相手は最初からそういう人物だったのかもしれない。
変わったのは相手ではなく、こちらが見ていた相手の姿だった可能性がある。
考えてみれば、私たちが他人について知っていることは、常にその人のごく一部でしかない。
我々は限られた情報から相手の人物像を組み立て、その人物像に対して好意を抱いている。
つまり恋愛には、少なからず想像が含まれているのだ。
言ってみれば、我々は相手の一部分という点を数個だけ受け取って、
残りの線を勝手に引いているわけである。
それが美しい絵に見えることもあれば、腹が立つほど不快に見えることもある。
そう考えると、「恋は盲目」には、もう少し深い意味があるように思える。
我々は恋をすると、目が見えなくなるのではない。
むしろ、相手について知らない部分を、自分の想像で補いながら見ているのかもしれない。
そして、長く関係を続けるということは、少しずつその虚像を手放し、目の前にいる実際の相手を知っていく過程でもあるのだろう。
想像上の人物と別れ、実在する人物と出会い直す。
恋愛とは、そういう地味で長い引っ越し作業なのかもしれない。
人類はなぜ恋をやめなかったのか
こうして振り返ると、恋愛は実に歴史の長い現象である。
求愛のために洗濯ばさみを集める鳥がいた。
4,000年前の人間は恋の詩を書き、古代エジプト人は恋煩いに苦しみ、シェイクスピアは恋人たちの愚かな振る舞いを観察していた。
そして現代の我々も、相変わらず、好きな人からの返信を待っている。
しかし、我々は人生において、常に合理的な判断をするためだけに生きているわけではない。
美しい夕日を眺めることも、意味もなく音楽を聴くことも、誰かを好きになることも、必ずしも合理性では説明できない。
説明できてしまったら、おそらく夕日を見つめる人はあまりいなくなるだろう。
恋は盲目という性質は、単なる人間の欠陥ではなく、誰かを特別な存在として認識することに伴う、一つの性質なのかもしれない。
大切なのは、盲目のままでいることではなく、そこから少しずつ、相手の本当の姿を知っていくことなのだろう。
もっとも、こうしたことを冷静に考えられるのは、たいてい恋をしていないときであるが。
人類は月に行き、AIを作り、宇宙の起源にまで迫ろうとしている。
しかし今日も世界のどこかで、誰かがスマートフォンを見つめながら、たった一通の返信に人生を左右するほどの価値を見出している。
その二つの事実こそが人間が人間である証拠なのではないだろうか。

最後に
ここまで恋愛について語ってきたが、人間的活動というのは、何も恋愛に限った話ではないだろう。
先ほども述べた通り、夕日に感動したり、音楽ライブで気持ちを昂らせたり、時には芸術に心を動かされたり、人間らしさはどこまで













