何もしないは、簡単である。はず?
何もしない。
これは、非常に簡単そうに見える。
何しろ「何かをする」必要がないのだから、失敗のしようもない。
椅子に座る。
スマートフォンを置く。
テレビを消す。
本も読まない。
音楽も聴かない。
以上である。
ところが実際にやってみると、五分ほどで妙なことが起こる。
スマートフォンが気になる。
別に通知が来たわけではない。
急ぎの仕事があるわけでもない。
国家から重要な連絡が届く予定もない。
それでも、とりあえず画面を見る。
そして気がつけば、三十分前には存在すら知らなかった猫の動画などを見ている。
どうやら人類は、退屈から逃げ続けた結果、退屈そのものを恐れるようになってしまったらしい。

かつて世界には「待つ」という時間があった
少し前まで、人間の生活には今より多くの空白があった。
電車を待つ。
友人を待つ。
料理が出てくるのを待つ。
病院で順番を待つ。
誰かから電話がかかってくるのを待つ。
そこには基本的に、何もなかった。
駅のホームに立っているなら、駅のホームに立っているしかないし、
目の前に鳩がいれば鳩を見るし、いなければ床を見る。
暇である。
だが、その暇は特別問題ではなかった。
暇とは天気のようなもので、たまにやってくるものだった。
ところが今では、暇はほぼ絶滅危惧種になった。
十秒あれば通知を見る。
三十秒あればSNSを開く。
三分あれば動画を見る。
十分あればネットショッピングを始め、差し当たり必要でもなかった収納ケースを買うことすらできる。
実に便利である。
人類は長い時間をかけて、「何も起きない時間」をほぼ完全に駆除することに成功した。
そして、いざ何も起きなくなると、不安を感じるようになった。

退屈は、本当に悪いものなのか
私たちは、退屈を悪いものだと考えがちである。
「暇だった」という言葉には、どこか残念な響きがある。
休日明けに、「昨日何してたの?」と聞かれて、
「何もしていない」
と答えると、なぜか少し申し訳ない。
そこで、「ちょっと買い物して」とか、
「散歩したりして」とか、
最低限の活動実績を付け加えてしまう。
このように誰に求められたわけでもないのに、
意図せず休日の業務報告書を提出している時があるが、
退屈というものは、本来それほど悪いものなのだろうか。
何もすることがなければ、人は勝手に考え始める。
昔のことを思い出したり、
どうでもいいことを想像したり、
突然アイデアを思いついたり、
少し前に腹が立ったことにもう一度腹を立てたりする。
特に有益なことは起きないかもしれない。
しかし、何も入力されない時間があることで、ようやく自分の中にすでに入っているものを見ることができる。
退屈とは、頭の中にできる小さな空き地なのかもしれない。

余裕とは、「空いている時間」ではない
ここで少し不思議なのが、現代人は昔よりはるかに便利な生活をしているはずなのに、
あまり余裕があるようには見えないことである。
洗濯機は洗濯をしてくれる。
炊飯器は米を炊いてくれる。
スマートフォンは地図を表示し、銀行振込を行い、ホテルを予約し、知らない漢字まで教えてくれる。
これだけ機械が働いてくれているのだから、
人類は午後三時ごろから芝生に寝転がって雲でも眺めていてよさそうなものだ。
しかし現実には、そうなっていない。
仕事が早く終われば、別の仕事をする。
移動時間には勉強をする。
散歩中にはPodcastを聴く。
食事中には動画を見る。
寝る前には明日の予定を確認する。
技術によって生まれた余白に、人間はすぐ別の予定を詰め込んでしまった。
つまり、余裕とは単に「時間が空いている状態」ではない。
余裕とは、空いている時間を、空いたままにしておける能力なのではないだろうか。

なぜ、空白があると不安になるのか
なぜ私たちは、そこまで空白を埋めたくなるのだろう。
一つには、現代社会では「時間を有効に使うこと」が強く求められているからだと思う。
勉強する。
運動する。
働く。
成長する。
情報を集める。
改善する。
もちろん、どれも悪いことではない。
問題は、それが唯一のものさしになったときである。
すると、「何も生み出していない時間」が、まるで失敗のように感じられてくる。
一時間、ベンチに座っていた。
資格は取れない。
お金も稼げない。
SNSのフォロワーは、もしかすると減っているかもしれない。
GDP向上にも、おそらく何の寄与もしていない。
現代的な評価基準からすれば、惨憺たる一時間である。
しかし、その一時間は本当に失敗だったのだろうか。
人間はいつから、自分が存在しているすべての時間に成果を要求するようになったのだろう。

「何もしない」ができないとは、「目的がない」を許せないことなのかもしれない
ここで、「何もしない」という話が少し別の顔を見せ始める。
何もしない時間に耐えられないということは、言い換えれば、
目的のない時間に耐えられない
ということなのかもしれない。
何のためにやるのか。
何が得られるのか。
どんな成長につながるのか。
どんな成果が残るのか。
もちろん、目的を持つこと自体は素晴らしい。
問題は、すべてのものに目的を要求することである。
そもそも人間の人生には、家電製品の説明書のように「使用目的」が印刷されているわけではない。
生まれた瞬間に、
「あなたの用途:営業利益を前年比7%向上させること」
などと書かれたラベルが貼られている人はいない。
だから人間は、自分で目的を作ったり、途中で忘れたり、別のことに夢中になったりしながら生きている。
それなのに、あらゆる時間に意味と成果を要求し始めると、人間は少しずつ機械に近づいていく。
そして、実のところ残念ながら人間は機械としてはあまり優秀ではない。

無駄を許せない社会は、人間も許せなくなる
ここから、退屈と寛容の話がつながってくる。
目的や効率を強く求めることには、一つの特徴がある。
それは、「正しい状態」がはっきりするということだ。
最短ルートがある。
正解がある。
目標値がある。
成果がある。
すると、それ以外のものは「無駄」になっていく。
寄り道。
失敗。
勘違い。
遠回り。
取り留めのない会話。
意味のない遊び。
こうしたものは、効率というものさしでは評価しにくい。
しかし困ったことに、人間の生活のかなりの部分は、こういうものでできている。
だから、無駄を許せなくなると、やがて人間そのものを許すのが難しくなってくる。
自分の失敗に苛立つ。
他人の遅さに苛立つ。
理解できない考え方に苛立つ。
自分とは違う生き方をしている人を見ると、理由を求めたくなる。
「なぜそんなことをするのか?」
だが、ときにはその答えが、
「なんとなく」
であってもいいはずなのである。

寛容とは、人間を理解することなのかもしれない
人間というのは、言うまでもなく効率の悪い生き物である。
もし本当に効率の良い生き物なら、そもそも「効率化」などという言葉はここまで頻繁に使われていないだろう。
話は脱線する。
説明はうまくまとまらない。
自分でも信じられない失敗をする。
妙な勘違いをする。
気分が落ち込んだり、いらいらしたり、そしてそんな自分にさらに辟易したりする。
機械として考えれば、かなり早い段階でリコール対象である。
しかし残念ながら、我々は今のところ人間なので、この不安定な人間たちと一緒に暮らしていかなければならない。
そして、そんな人間を受け入れるためには、心の中に少し空いている場所が必要なのだと思う。
予定通りでなくてもいい。
合理的でなくてもいい。
少しくらい理解できなくてもいい。
そう思える余地である。
寛容さとは、人間を立派な存在だと思うことではない。
むしろ、
「人間とは、だいたいこんなものだ」
と理解することなのかもしれない。
そして、できればその不完全さを面白がることができれば、なお良い。

余白のある人になる
余裕という言葉は、お金や時間の話として語られることが多い。
もちろん、それらも重要である。
しかし、それとは別に、心の中に「何にも使われていない場所」があることも、余裕なのではないだろうか。
予定のない午後。
イヤホンをしない散歩。
目的のない寄り道。
窓から外を眺める十分間。
何の役にも立たない会話。
ぼんやりする時間。
現代社会では、こういうものは真っ先に削減対象になりやすい。
役に立たないうえ、時間まで使うからである。
だが、その「役に立たないもの」をすべて取り除いてしまうと、人間そのものまで少し窮屈になる。
自分の中に余白がなければ、他人が入り込む余地もなくなる。
違う考え方。
違う生き方。
違う価値観。
理解できない行動。
そういうものを「まあ、そういうこともある」と受け止める場所がなくなっていく。
だから、
退屈すること。
余裕を持つこと。
寛容であること。
この三つは、実はそれほど離れた話ではないのかもしれない。
何もしない時間を許すことは、無駄を許すことであり、
無駄を許すことは、人間の不完全さを許すことでもある。
そして、その不完全さの中にこそ、人間らしさがある。

最後に
最後に
ここまで「何もしない」ということについて考えてきた。
しかし結局のところ、大切なのは、本当に何もせずに生きることではない。
「役に立つから」ではなく、「ただ、そうしたいから」何かをする余地を残しておくことなのだと思う。
絵を描く。
意味のないものを作る。
くだらない話をする。
目的もなく歩く。
誰にも見せない文章を書く。
それは、ときに芸術であり、単純な工作であり、全く意味をなさない詩かもしれない。
仕事の中で、自分なりの美学にこだわることだってそうだろう。
そうした行為は、効率だけを考えれば必要のないものかもしれない。
だが、人間は機械ではない。
かといって、ただ生存するだけの存在でもない。
その間で、意味を作ったり、壊したり、寄り道したり、ときどき何もしなかったりする。
その自由な遊びの部分に、人間らしい豊かさがあるのではないだろうか。
この記事でもたびたび触れてきたROMANsのアートも、そんな「役に立つかどうかだけでは測れない、人間的な豊かさ」を表現している。








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